濱田慎吾 ライカ 東郷青児「濱田慎吾作品展」に行ってきた(前篇)吉田類さんと飲んでいるときであった。今年(16年)1月中旬のことである。 句会が終わり、仲の良いメンバー同士でバカ話しに花が咲いていたとき、濱田さんが鞄の中から小冊子(写真上)を取りだされたのである。 拝見すると「画集 風音 KAZE OTO」とある。手に取らせてもらうと濱田さんが自費出版された画集だと分かった。 類さんの句会のメンバーには個性の強い人が多いが、ここにもこういう才能のある人がおられるのだ。 聞けば、スケッチを描きためたものを1冊の画集にされたものだという。 表紙はグリーンと墨の2色だが、本文はカラーとなっている。 掲載されている濱田さんの絵はスケッチばかりだが、その内容は横浜の桜木町から日本大通り、元町、中華街、山手、野毛などの風景や寺社、さらには人物、静物などの多岐に渡り、合計約70点が掲載されている。 絵は、スケッチブックに水性のペン描きで、その上に水彩を施しておられるように見える。独特の味が出ており、巧い絵だと思う。 では、おいらの目の前で一緒に酒を飲んでいる濱田さんとは一体どんな人なのだろうか。 濱田慎吾氏、古希であられる。茅ヶ崎ご出身で横浜市役所に勤務後、定年退職後の現在は悠々自適の生活を過ごされておられるようだ。 趣味で絵を描いておられるのだが、若いときは伊勢佐木町にあった美術教室に通われ、デッサンや油彩を学ばれたという本格派であられる。どうでもよいことだが、おいらは浜田省吾の大ファンである。名前が似ているところもよい。 そのときは絵の話しで盛り上がり、おいらは濱田さんの画集を購入させてもらい、柚木惇様宛のサインもいただいたのである。 その濱田さんから過日、一枚のハガキが届いた。 「画集 風音 KAZE OTO発刊記念 濱田慎吾作品展」とある。 3月1日から6日まで横浜石川町の画廊で個展を開催されるというのだ。これは愉しみである。 おいらは時間を作って最終日6日の午後に訪問することにしたのである。 おいらが濱田さんの絵を観に画廊を訪問したのには分けがある。 画集の絵を観ただけでは、その絵の本当の良さは分からないのである。 例えば、ゴッホのひまわりである。あれは、絶対に本物を観なければその良さは分からない。 それに、画集と本物との決定的な差はその大きさである。ゴッホのひまわりは実は大きいのである。畳、約一畳分の大きさくらいだろうか。その反面、おいらたちが教科書で観たひまわりはせいぜいハガキ大のサイズだ。だから、現物を観たときの感動はまずその大きさにあると云っても過言ではない。 だからと云う分けではないが、おいらは現物を観なければ美術鑑賞はできないと思っている。濱田さんの絵も現物を観たくなったのである(この項続く)。 「濱田慎吾作品展」に行ってきた(中篇) 目指す画廊「ぎゃるり じん」は石川町駅から徒歩数分の至近距離であった。 この日は生憎の雨で夕方に近い時間帯であったが、画廊内は絵を鑑賞されている人が多く、盛況であった。 濱田さんがおいらに気付かれ、「ああ、わざわざお越しいただきありがとうございます」と挨拶をされる。類さんのメンバーだとすぐに分かっていただき、おいらは最終日の訪問になったことを詫びる。 すでに同じメンバーのYさんも訪問していただいたと濱田さんからお話しを聞く。 この日は濱田さんの奥様とご家族もいらっしゃっておられ、画廊は人で一杯の状態である。濱田さんから奥さんのご紹介をいただき、おいらはお祝いの言葉を述べる。 おいらは、画廊内をゆっくりと拝見させてもらった。約30点が所狭しと展示されている(写真は濱田慎吾氏)。 驚いたのは、絵の大きさがA5サイズより小振りだったことであった。キャンパスに例えると0号くらい、写真で云えば2L版くらいの大きさである。恐らく濱田さんが最も描き易いサイズがこの大きさなのだろう。 スケッチは上質の紙に水性ペンでびっしりと描き込みがなされている。水彩によって彩色されているものもある。おいらは、やはり来て良かったと素直に思った。 画集に比べてはるかに巧いのである。 画集は現物の筆のタッチや微妙な色彩が表れていないのである。それに比べて、目の前の絵は濱田さんのタッチがどれもよく表れており、その味がまた何とも云えない。 これは、絵を描かれていたとき、ご本人自身が一番気持ちがよくなっておられたはずである。 また、画廊内には画集には掲載されていなかった油彩(人物画)も2点展示されていた。 両方とも習作と銘打っておられるが、なかなかどうして完成度は高いとみた(この項続く)。 「濱田慎吾作品展」に行ってきた(後篇) 個展であるので、売約済みの絵には赤のシールが貼ってある。いや、貼ってない絵がほとんどない。 展示の最終日だからというのもあるかも知れないが、これほど売れるというのは珍しいのではないか。おいらも濱田さんの絵が欲しくなり、残った中から下の絵を求めた。 野毛の「居酒屋たまやさん」である。 構図が文句なくよい。よくも運よく売れ残っていたものである。濱田さんにお聞きすると店主は井上ひさしに似ておられたのこと。居心地のよい店でよく行かれたとのことだが、今はもう閉店になっているそうだ。 実はこの絵が描かれたのが9年前で、展示されている絵は最近約20年間のものだという。 濱田さんは寡作な画家なのである。濱田さんにお聞きすると50歳を超えて気楽に描くことができるスケッチに目覚めたとのたまわれる。 自宅の庭を眺めているとき、散策でふと目に留まった風景、旅先での記憶に残る風物、そういうものを描いてこられたという。 濱田さんはそのうちに若いときに経験した絵を描く愉しみを思い出し、また、描いているときにその空気感、果ては風の音までも絵の中に描きこめていくことができるような気がされるのである。 だから、どの絵も素晴らしいのだ。おいらはそう了解したのである。 個展の最終日だったので、おいらは大事に上の絵を両手で抱えて自宅に戻った。愚妻に観せるのが愉しみだ。 この日、濱田さんは打ち上げで家族の皆さんと夜を過ごすらしい。おいらもよい一日であった。 濱田さん、個展大成功おめでとうございました。また、こうしていい絵を観ることは、おいらの創作意欲を刺激することでもあります。ありがとうございました。次回は類さんの句会でまたお会いしませう(この項終わり)。 ファインダーカメラとおいら(前篇) 何でもかんでも全自動が流行りである。 車のオートマは当たり前で今や、無人操縦まで実現しそうな勢いである。洗濯機も最近では乾かすまでではなく、たたむ機能までも取り込もうとしているそうだ(実現可能性があるらしい)。 だけどねぇ、こんなことばっかりやっていると人間、バカになるよ。 カメラだってそうだ。今や、絞りやシャッタースピードなどお構いなしである。いや、その意味だって分からない人がほとんどだろう。 銀塩フィルム全盛時代の名機はライカだった。残念なことにおいらはライカを持ったことはないが、あれはファインダーカメラの最高傑作との評価が高い。 このブログにも書いているが、おいらは同じファインダーカメラのマミヤ(写真上)を中学生のときに親父に買ってもらい、もちろん、手動式で絞りとシャッタースピードの関係を体で覚えた。 当然オートフォーカスなどではなく、ピントは自分でカメラのレンズヘリコイド(筒の部分)を回しながら合わせるのである。 フィルムも白黒が当たり前で、中学2年生のころにカラーフィルムが普及し始めたという記憶がある。フィルムの感度を表すASA 100とか400とかも自然に覚えた。 これは車の運転で云えば、クラッチを使ってギアを変えるのと同じ理屈である。これが分からなければ、車がどうやって動くのかと云う理屈など分からない。だから、オートマの免許など車の免許などとは云わないのである。 カメラも同じである。どうしたら良い写真が撮れるかは、カメラの理屈が分かっていなければ本来、撮れる道理がない。 しかし、時代は変わった。オートフォーカスでないカメラなどカメラではなくなった。だから、今どき、ライカのカメラを使う人は例外である。ライカが左前になるのは当然だったのである(この項続く)。 ファインダーカメラとおいら(中篇) ライカに寄り道する。 要するに、カメラの歴史はライカによって造られてきたのである。 ウイキぺディアによれば、「もしライカが産まれざりせば、他の35ミリカメラの誕生は、はるかに遅れたかもしれないし、あるいは全く生れなかったかもしれないのである」としており、世界のカメラメーカーはライカを超えることを目標としたのである。 だから、かのロバート・キャパもライカを使っている。 ではなぜ、それまでにライカのカメラが良いかと云うと、撮れた写真の仕上がりの良さが他のカメラと比べて格段に良いからである。 しかも、カメラ自体の機械としての完成度が群を抜いている。 シャッターを押し込んだときの手に返ってくる柔らかな感覚は筆舌に尽くしがたく、同時にシャッター音はほとんどない。 次の写真を撮るためにクランクを巻き上げたときの感触は機械として極めて精巧に作られているために、しなやかで適度な重さをもったフィルムの巻き上げ感となる。 また、レンズのピントヘリコイド、絞りヘリコイドを回すと,他のメーカーにはない何とも表現し難い柔らかく滑らかな感じがするそうである。 そうして、完成され尽くしたライカが1954年に発売されたM3型ライカである(写真上)。 M3型の後継機であるM4型ライカも名機であるが、M3型はファインダーカメラとして当時世界最高とまで云われるほどの技術を余すところなく投入していたのである。 このため、その性能のあまりの高さに日本のカメラメーカーは1950年代まではライカを目標にして技術開発を行なっていたが、開発方針を一眼レフカメラへと大転換せざるを得なかったのである。M3型は今でも名機と賛美する人が絶えないが、このことがライカを逆に現在主流の一眼レフカメラへの参入を遅らせてしまうという皮肉な結果となる。 世の中のカメラメーカーは一眼レフカメラ化と低コスト化に乗り出す。しかし、それに乗り遅れたライカは経営に陰りが出る。その打開策として1972年、ミノルタと業務提携する。 この提携は後に解消されたが、技術提携によって双方の技術がその後の両社の技術開発に多大な影響を与えることになった。だが、経営好転までには至らず、1975年に販売されたライカ発売50周年記念モデルを最後にライカの生産は途絶える。 その後、1990年にメーカー名をライカカメラとして再出発、一時エルメスの資本も入ったが(写真下)、経営状態の改善は進まずエルメスは撤退した。 2001年、松下電器産業(現パナソニック)とデジタルカメラ分野で技術提携し、レンズの光学系はライカと共同開発してライカのライセンスを受けて生産を行なっている。また、松下からのOEM供給によるライカブランドの販売も行っている。 と、まあ、以上のようなライカの歴史から、カメラはファインダーカメラから一眼レフに、手動から全自動に移行(もちろんデジカメにも移行)したことが分かるのである(この項続く)。 ファインダーカメラとおいら(後篇) では、本当に全自動カメラがよいのか。一眼レフカメラがよいのか(写真はライカM4)。 現在、全自動は手動カメラを駆逐し、ミラーレスも含めて一眼レフカメラでなければカメラでないという時代である。無論、アナログのフィルムではなく、デジタルカメラでなければカメラでない時代になった。 確かに全自動カメラは素晴らしい。昔は露出計を使って露出を決めていたのだが、今や、カメラが自分で判断してくれる。数年前に仕事の関係でビデオ制作会社のカメラマンと話しをしたことがあるが、彼は元はプロのカメラマンであったそうだ。 しかし、カメラの進歩はすさまじく、全自動カメラは人工知能ともいうべき水準になり、素人がプロのカメラマン以上のレベルの写真を簡単に撮れる時代になった。その結果、カメラマンを廃業してビデオ会社に入社したという。 だから、このブログでも書いているが、素人が全自動カメラでプロ並みの写真を撮ることは珍しくない。だが、手動式のライカで傑作を撮ることができるのがプロのカメラマンである。他方で、素人がそれを行うことは至難の業である。 アラーキーも「日本人の顔」を撮るときは、「アサヒペンタックス6×7」である。手動式の中判カメラで、使うフィルムは120フィルム。 ここからおいらの考えを述べる。 手動式のファインダーカメラを使いこなすには、人とカメラとが一体化していなければならない。そうでなければよい写真が撮れないからである。カメラの機能を最大限に引き出すのはあくまでも人間なのである。だから、カメラは体の一部になる。 それに対し、全自動カメラには何と緊張感のないことか。それは人間の堕落であり、カメラの堕落でもある。写真の美学に欠ける! 寝ころびながら写真を撮って何が嬉しい。土門拳や木村伊兵衛は真剣勝負で写真を撮ったのである(写真はライカM3)。 と思っていたが、人間は一度、楽をするともう昔には戻れない。そのうち人工知能のついたカメラが登場し、何にもしなくてもバシャバシャ写真が撮れる時代が来るのだろう。人間はどうなるのだろうか(この項終り)。 今さら東郷青児展かとも思ったが 東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館で「生誕120年東郷青児展」(17年9月16日~11月12日)が開催されていたので、新宿まで足を伸ばした。 今さら東郷青児展かとも思ったが、藤田嗣治と同時代に生きていた画家であり、今回はフジタの壁画(装飾画)も展示されていたからである。 ところが、生誕120年記念と銘打っているだけに東郷青児の軌跡を一度に観るとこれがまた趣深い。 単なるペンキ屋ではなかったことがよく分かる。 やはり、青児もオリジナリティを求めて人生と格闘していたのである。自分のスタイルを確立したときは嬉しかったんだろうねぇ。 最近見つかった、パリから帰国して二科展準備中の青児の写真(1928年と推定されている)の3年後、青児はキュビズムから脱却して「座りの悪い理論の椅子は古道具屋に売り払ってしまった」、「一人のよき職人たろうと心がけている」と語っている。 だから、このころ1930年代の作品は生き生きとしている。 1936年の丸物百貨店(注)の壁画はアルチザン(職人)としての自信にあふれている。いいねぇ。 これだけで鑑賞した価値のある美術展に仕上がっていた。 ところで、おいらは1930年代と思われる東京火災保険株式会社の「火災保険リーフレット」を持っている(物好きにもネットオークションで購入した)。 無論、東郷青児の油彩が表紙である。 当時の東京火災社長、南莞爾氏(1936年に社長就任「東京火災保険株式会社五十年誌」(1936年11月)による)は芸術に造詣が深く、いわばパトロン的存在として青児を支援したようである。 今回は、東郷青児による南莞爾氏の写実的な肖像画も展示してあったので(絵は巧い)、興味を惹いた次第である。 このリーフレット、絵も素晴らしいが、戦前の火災保険が紹介してあり、中身もまた楽しめる内容となっている。 そう云えば、おいらは舟橋聖一の単行本で東郷青児が表紙と装丁をした古いレアものも持っている。引越しで今すぐには出てこないが、今回の美術展では当時の他の書籍も展示してあったので興味深い。 青児の装丁した古書は今では手に入らないのである。いずれ処分しなければならないときは、リーフレットともども同美術館に寄贈してみようかなと思っている(なお、この美術展は、今後、久留米(青児は熊本生れだからか?)と大阪で巡回開催予定である)。 最後に。東郷青児、自らがアルチザンと自覚していたことを知り、正直、もっと評価されてしかるべき画家であると今回は惚れ直した次第である。今回は、コレニテオシマイ。 (注)丸物(まるぶつ)百貨店なんておいらは知らないよ。そういう百貨店があったのだと、この百貨店の歴史をひもとくと面白い。 丸物は京都市下京区に存在した、かつて全国的に店舗展開をした百貨店の一つであった。 東京初の店舗として開業した新宿店はストリップ劇場の「新宿ミュージックホール」が入っていたため「ストリップ劇場がある百貨店」として有名だったようだ。 後に、近鉄百貨店系列になるが、旧丸物の店舗は全て消滅し、法人格と上場資格のみを近鉄百貨店が引継いだ。 以 上 なお、明日と明後日は休日につき、お休みをいただきます。 それでは、皆様よろしゅうに。 |